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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)9336号 判決 1984年6月26日

原告

角舘三郎

原告

角舘幸子

右両名訴訟代理人

舘孫蔵

加毛修

川嶋義彦

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

金岡昭

外二名

主文

一  原告らの請求を、いずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一請求の趣旨

1  被告は、(一)原告角舘三郎に対し、金四〇五八万九一三四円及び内金三六九八万九一三四円に対する昭和五二年三月三一日から、内金三六〇万円に対する昭和五二年一〇月一五日から各完済まで年五分の割合による金員(二)原告角舘幸子に対し、金三九五八万九一三四円及び内金三六九八万九一三四円に対する昭和五二年三月三一日から、内金二六〇万円に対する昭和五二年一〇月一五日から各完済まで年五分の割合による金員、をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  原告ら勝訴の場合、担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一請求の原因

1  当事者

(一) 訴外亡角舘弘英(以下「弘英」という)は昭和三四年二月四日出生し、昭和四九年四月東京都立航空工業専門学校(以下「本校」という)に入学し、昭和五〇年七月本校山岳部員となつたが、昭和五二年三月三〇日後記遭難事故(以下「本件事故」という)により死亡した。

原告両名は弘英の両親である。

(二) 被告は本校を設置しているものであり、本校の教職員らは被告の公務員である。

2  本件事故の発生とそれに至る経過

(一) 本校山岳部は昭和三七年頃発足したものであり、昭和五二年当時は助教授である訴外小泉孝一(以下「小泉」という)及び講師である訴外中山忠雄(以下「中山」という)の両名が顧問としてその指導に当つていた。

(二) 本校山岳部は小泉及び中山の引率指導の下に、昭和五二年三月二七日から三一日まで四泊五日の日程で木曽駒ケ岳山行の合宿行事を計画した。右計画(以下「本件山行計画」という)による参加者及び日程は次のとおりである。

(イ) 参加者

小泉、中山(以上、顧問)、加藤正孝(四年生、リーダー。以下「加藤」という)、角田敏憲(四年生、サブリーダー。以下「角田」という)、弘英(三年生、サブリーダー)、嶋ノ内均(二年生。以下「嶋ノ内」という)、志村茂雄(二年生。以下「志村」という)、森田広行(一年生。以下「森田」という)、仲佐義樹(一年生。以下「仲佐」という)、清水辰治(O・B。以下「清水」という)

(ロ) 日程(行動予定)

二七日 新宿発―伊那市―桂小場―ブドウの泉(幕営地・桂小場)

二八日 ブドウの泉―大樽小屋―胸突の頭―分水嶺―西駒山荘(幕営地・西駒山荘)

二九日 雪上訓練(幕営地・西駒山荘)

三〇日 西駒山荘―馬の背―駒ケ岳―中岳―宝剣岳―中岳―駒ケ岳―西駒山荘(幕営地・西駒山荘)

三一日 西駒山荘―大樽小屋―桂小場―伊那―新宿

右合宿行事の計画は、主として部員の上級生間で検討され、小泉が昭和五二年三月その原案を見て新宿発を夜行から午前に変更したうえ宿泊を伴う学校行事の承認申請書を起案した。学校長は同月四日この申請をし、東京都教育委員会は同月一五日これを承認した。

(三) 前記参加者一〇名の本校山岳部パーティー(以下「本件パーティー」という)は、昭和五二年三月二七日新宿駅を列車で発ち、午後二時二〇分頃伊那北駅に着き、同市からタクシーで内の萱の先まで行き、降りるとき運転手に登山届を託し、同三時二〇分桂小場に着き、時刻も遅くなつたとして同日は同地の信州大学演習林駐車場で幕営した。

二八日、同パーティーは午前五時一〇分頃桂小場を出発したが、同五時三五分から八時四五分までの間三時間余に亘つて道に迷い午後一時頃大樽小屋に到着したが、この小屋が半壊していたので同日はその付近で幕営した。

二九日、同パーティーは大樽小屋を午前五時一五分頃出発して同九時一〇分頃西駒山荘に到着した。この時点において前記計画は、その行動内容が変更され、その日程も一泊分の遅れを生じていた。同日は同地で雪上訓練を行なつた。午後四時にはラジオの気象通報により中山が天気図を作成した。放送中にラジオの故障はあつたが作成された天気図からは天候の急変はないと判断した。夕食後二時間位歓談してからテント内でミーティングを行ない、明三〇日は予定どおり駒ケ岳、宝剣岳を往復することとし、同日は午後八時頃就寝した。その後の天候の急変については引率教員は夢想だにしなかつた。

(四) ところが三〇日になるや、午前零時頃から天候が悪化し、早朝には強い吹雪となつた。そこで本件パーティーは予定を遅らせ同六時頃起床し、同日に予定していた駒ケ岳、宝剣岳往復を中止した。朝食後においてザイルの一端を固定し、他端を体につけた学生が一名ずつ外部の状況の体験をした。西駒山荘の外部は風雪で、風の強さは伊那側で直立して歩けるくらい、木曽側は直立しておれないほどであり、風速は毎秒一五ないし二〇メートルであつた。

加藤が同日九時一五分のラジオの気象通報を開きながら天気図を作成したが、小泉、中山はこの天気図によつて、中国大陸の低気圧が東進してきており、同日以降天候が一段と悪化するものと考えた。そこで、西駒山荘に滞在するか下山するかについて、小泉、中山及び清水、加藤、角田の五名で問題点を協議した。下山について、外部状況を把握するため、午前一〇時五〇分頃、小泉と清水が、主として将棊頭山腹を胸突尾根方向に偵察しようと出発した。両名は、西駒山荘から将棊頭頂上に向つて五〇ないし八〇メートル進んだが、強風で歩くことが困難であつたので方向を伊那側山腹に転じて稜線とほぼ平行に稜線下三〇ないし四〇メートルのところを胸突尾根方向に歩いて三ツ岩に達した。この稜線下の雪はクラストしていて、アイゼンの爪が五ミリないし一センチ入る位の殆んど氷に近い状態であつた。三ツ岩から下方に進み、森林限界の近くまで降りた。その辺では雪の中に足がもぐるようになり、雪の深さは森林限界近くでくるぶしが隠れるか隠れない位あつて、その雪の下はクラストしていた。五万分の一の地図によれば稜線から伊那側下方五〇〇ないし六〇〇メートルのところに三本の沢筋が認められ、うち二本は未確認であつたが、これにつき現地確認しないまま、森林限界沿いに引き返して同一一時四〇ないし五〇分頃西駒山荘に帰つた。

小泉は、右偵察の結果として、(あ)稜線ルートは風が強くて行けない、(い)稜線直下の伊那山腹はクラストしていて滑落の危険があるが将棊頭山頂から一〇〇メートルくらい下方の伊那側山腹の森林限界を胸突尾根に向つて進むルート(以下「本件ルート」という)なら下山できると考え、これを下山可能ルートである旨報告し、下山することが決つた。

(五) 本件パーティーは同日午後零時二〇分頃西駒山荘を出発し吹雪の中で下山を開始した。森林限界に至る少し手前で清水、志村、嶋ノ内らにより二回に亘つてクラックが目撃されているが、小泉、中山はこの事実を知らなかつた。隊列は森林限界に達して左折し、胸突尾根の方向に向い森林限界に沿つて進んだ。森林限界沿いに至つてからはかなりの新雪があり、ラッセルが心要となつたので隊列の間隔は詰つた。隊列はラッセルしながら、志気を鼓舞するため掛け声をかけ合つて進行した。森林限界沿いでは、風は弱く、視界も良好であつた。この間小泉、中山は隊列の後尾に終始した。

(六) かくて本件パーティーは同日午後二時頃、樹林の途切れた沢の上部である本件事故現場にさしかかつたが単なる樹林の途切れであると思い雪崩の危険を全く感じないままここを横断しはじめたところ、表層雪崩が発生し、同パーティーはこの雪崩に巻き込まれ、その結果前記参加者のうち小泉、中山、嶋ノ内を除く七名は即時同所において圧死した。

3  小泉及び中山の過失

(一) 本件パーティーは、構成員のうち五名が高校生相当の年令の者であり、全体的に雪山経験が浅く(森田及び仲佐の二名は全く経験がなかつた)、しかも本件山行計画は学校教育行事の一環として、本校山岳部の顧問である小泉及び中山が参加して行なわれたものであるから、小泉及び中山(特に、登山経験の深い小泉。以下これを「小泉ら」ということがある)が実質上の引率者であり責任者であつた。

(二) ところで、一般に山岳パーティーの引率者は、登山活動を安全確実に遂行し構成員の生命の危険に対してその安全を確保するために万全の注意義務を尽くすべきものであるところ、右(一)のような本件パーティー及び本件山行計画の性格に照らせば、小泉らの右注意義務は更に重いものでなければならなかつた筈である。

(三) しかるに、本件事故発生に至つたのは、小泉らに次のような過失があつたことによるものである。

即ち、(1)その致命的な原因は、前記のような悪天候下においてはそもそも下山すべきではなかつたのに、下山決定をして下山したことにあり、(2)また仮に下山することが真にやむを得ないものであつたとしても、本件ルートは雪崩発生の危険性が極めて高いルートであつたのであるから、雪崩に対する周到な配慮をして下山すべきであつたのに、これを欠いていたと言わなければならない。

以下、右の点を具体的に述べる。

(1) 下山決定に関する過失

下山決定をするに際しては、まず安全の確保を第一とし、予測される危険を回避するためには、下山の場合と停滞の場合とにおけるそれぞれの具体的危険を十分比較衡量して、より安全な処置をとるべきものであるところ、本件パーティーの場合においても、小泉らが下山の場合の危険について十分検討を尽くし且つ適切な判断をしたならば、停滞する場合に予想される種々の不都合を考慮しても、なお停滞の決定をすべきであつた。しかるに、小泉らは天候推移の予測を誤り((イ))、停滞した場合の部員の精神的動揺を過大視し((ハ))、しかも下山ルートの選定を誤つて((ロ))、雪崩の危険の大きい本件ルートを下山する旨の決定をしたのである。

(イ) 天候推移の予測について

(ⅰ) 山行において天候の推移を把握することは安全確保のために重要なことであり、特に入山中悪天候に会つたとき、その原因を把握し回復の予測をするのに必須のことである。そのために、その時期、その現地における天候の特性についての知識と気象通報による天気図の作成、読みとりの技術を身につけ、これを活用することは、平均的登山者が通常の能力と注意力によつて容易に修得可能なことであるから、登山パーティーの引率者には尚更要求されることである。

(ⅱ) 本件の時期には、上海付近に発生した移動性低気圧が北東進し本州に接近して本件の如き悪天候をもたらすのが通例であり、この低気圧の接近・通過が四、五日位の間隔でくり返されるのが例である。そのため春山においては低気圧の影響による悪天はおよそ一日ないし一日半で回復し、これが四、五日の周期でくり返される。春山の場合、山行行動ができない程の強風は平均七、八時間続くのが普通である。この天候の周期性こそ春山における天候のリズム或いは特性であつて、厳冬期において北西季節風が一週間ないし一〇日間も吹き続けるのとは顕著に異る。このように悪天の原因が移動性低気圧によること及び春山に天候の周期性という特性があることは登山者の初歩的知識とされている。

(ⅲ) 本件山行中の二九日夜半ないし三〇日の明け方から降雪と強風を伴う悪天候に急変したのも、二九日午前上海付近にあつた移動性低気圧が時速三五キロで三〇日午前六時には九州西辺まで北東進した、その影響によるものである。加藤が三〇日午前九時一五分放送のラジオの気象通報を聞いて作成した天気図(甲第一七号証の六)によれば、右上海付近の低気圧が三〇日午前六時九州西辺まで北東進し、気圧一〇〇六ミリバールとなつていること、そのため朝鮮半島、四国、九州、関西、東北南部に亘つて平地では雨が降り、山岳では強い風雪となつていて、相当に注意すべき低気圧であることが知られる。

この天気図と前述の春山の天候の周期性を勘案すれば、三〇日はかなり荒天で三一日もその可能性はあるが、少なくとも四月一日は低気圧の影響はなくなると予測すべきものである。(現に、四月一日には天候は回復している。)然るに小泉らは三一日の天候は三〇日よりも更に悪化して風はますます強くなるであろうし、四月一日も低気圧の影響で風が強いかもしれないと予測した。この予測は誤りであつて、その天候に関してもつべき知識の欠如、当然払うべき注意の懈怠を示すものである。

(ⅳ) 小泉らにおいて、仮に四月一日まで天候が回復しないと考えたとしても、その回復までわずか二、三日間であり、その間西駒山荘に停滞して天候回復を待つことは後に述べるごとく特に支障がなかつたのであつて、その回復後に稜線ルートによつて下山するのが唯一の安全策であつた。

(ロ) 下山ルートの選定について

(ⅰ) 小泉らは、(あ)稜線ルート及び千畳敷ルートはいずれも強風のため下山できない、(い)権現ヅルネルートは距離が長く下山に長時間を要し、且つ未知の部分が多く図り難い危険が予想されるので下山ルートとして不適当と判断した。そして稜線から伊那側に下がつた山腹ルートによつて胸突尾根に到達する本件ルートを雪崩の危険がなく、また万一これが発生しても大事に至らない、安全な唯一最良の下山ルートであると考えた。しかし本件ルートは雪崩発生の危険が極めて高く、断じてこれを下山すべきではないものだつたのである。

(ⅱ) 二九日夜半ころからの移動性低気圧の影響によつて本件地域は激しい風雪となり、三〇日午前も雪が降り続き、風速は西駒山荘付近で毎秒一五ないし二〇メートルであつて、吹雪が続いていた。将棊頭山の伊那側山腹は、風下斜面で、斜度三〇ないし四〇度であり、沢を詰めた上方に森林限界を越えて広がつている大きな斜面である。このような天候と地勢の下にあつて、この斜面には雪崩の発生する危険な吹きだまりが形成されており、しかも当時の風雪の状況からみてその吹きだまりは雪崩発生の危険が極度に高まつていた。また、その吹きだまりを横断することは雪崩の原因となる危険なものであるが、本件ルートをもつて下山すれば、吹きだまりを横断する危険がある。当時の天候・地勢等からすれば、小泉らは右のことを当然予見し、少くとも予見し得べきものである。まして小泉は偵察の過程において、右山腹斜面を自ら歩いて、降雪を伴つた強風が稜線を越えて吹き続けていること、風下斜面の稜線下三〇ないし四〇メートルのところは新雪が積つておらずにその雪面は氷状にクラストしていてアイゼンの爪が辛うじてささる程度であつたこと、その山腹斜面を下つて森林限界の近くまできたとき足が柔かい雪にもぐり、くるぶしが隠れるか隠れないほどであつたことを体験しているのである。この柔かい雪のあるところが既に吹きだまりの形成区域に踏み入つたことを示すものであり、山腹斜面の地勢・天候の状況からみて、この部分及びその下方に危険な雪崩発生区域が形成されていることを知り得たか少くとも知り得べきものである。しかもその柔かい雪の下はクラストしていたというのであるから新旧雪のなじまない状態にあることも容易に知られるところであつて、この点からも雪崩発生の危険を察知すべきは当然のことである。

したがつて、小泉らとしては、パーティーの雪崩に遭遇する危険を予防し回避するため、本件ルートをとつて下山しないよう注意すべき義務がある。然るに小泉らは、下山のため本件ルートをとり、本件パーティーに同ルートを進行させ、雪崩発生の危険の高い吹きだまりを横断させて雪崩を誘発させた。

なお、小泉は、森林限界では万一雪崩が起きた場合でも樹木によつて雪崩の規模が拡大しないし、樹木で雪崩の速度が減少し、或いは樹木につかまつて逃げることも可能であると考えたというが、いずれもそのようなことはなく、これ自体引率者としての適格性を疑うに余りある荒唐無稽な考え方である。

(ハ) 停滞について

(ⅰ) 右に述べたように本件において安全な下山ルートは既になく、「これ以上天候が悪化して低気圧の本体につかまる前に早く安全な場所に逃避するため下山する」ことも一つの判断であるという段階は既に過ぎていた。「悪天候下では動くな」という雪山の原則は本件において正に妥当する。

(ⅱ) 西駒山荘に滞在するにおいて食糧・燃料・防寒対策上の危惧はなく、本件パーティーの全員が健康で元気であつた。また同山荘は本件当時の強風・降雪量を考慮しても何ら危険がなく、これに充分耐えうるもので、本件パーティーが安全に停滞できる構造のものであつた。

(ⅲ) 小泉らは停滞した場合における部員の精神的動揺を強調するが、部員の間には停滞を望みむしろ下山を意外とする雰囲気が強かつたし、前年八ケ岳春山合宿の際も精神的不安を全く感じないで吹雪下の屋外で二日間幕営した経験もあるところ、それに比しても西駒山荘の方が停滞環境において安全であり安心感がある。本件パーティーは引率教員二名を含む男子総勢一〇名より成るもので、しかも一両日程度の停滞によつて精神的不安や恐怖心のため停滞後の行動に懸念を抱くことなど考えられないことである。仮に部員が精神的不安を示したとしても、これを統率するのが引率者の果すべき責任であり、また停滞も山行訓練の一つである。

(ⅳ) 予定より帰宅が遅れることにより家族・学校に連絡がとれず心配をかけるという点も、本件山行には予備日が一、二日あつたし、家族・学校の心配よりもパーティーの安全が優先すべきことは当然である。

(2) 下山行動過程における過失

(イ) 本件ルートは表層雪崩発生の危険性の高い地域にあること前述のとおりであるから、仮に下山が真に余義のない場合であつても、小泉らはパーティーの安全をはかるため、雪崩につき最大の注意を払い次のような対策を構ずべき注意義務がある。

(ⅰ) 下山の出発に当つて部員に対し雪崩とその危険につき適切な説明と注意とを与え、慎重に行動する心構えをさせるべきである。そして途次に異常を見たときは必ず且つ直ちに小泉らに伝達すべき旨の指示も徹底すべきである。

(ⅱ) 小泉ら自らが隊列の先頭近くにあるなどして常に付近の雪の状況及び地勢を注視し把握して雪崩の危険を予知すべきである。

(ⅲ) 隊列が一定の充分な間隔を保ち、各自が自分で一歩一歩確実に歩くべきであり、本件の場合その間隔は一五ないし二〇メートルが望ましかつた。

(ⅳ) 雪崩の危険が感じられたときは、下山を中止しパーティーを退却させ若しくは安全な場所に退避させ、または一人ずつザイルでトラバースさせるなど事故予防のための適切な処置をとるべきである。

(ロ) 然るに小泉らは、(ⅰ)下山に当つての説明・注意・指示を怠り、(ⅱ)自らは隊列後方にあり雪崩の危険を予知するための注意を尽くすこともないまま、(ⅲ)ラッセルのため進行の遅い先頭に後続者が追いつくような形でダンゴのような隊列になつた状態で、志気を鼓舞するための掛け声をかけ合いながら山腹を横断進行し、本件事故現場に至つた。

(ハ) 下山の途中、森林限界の近くに至つたとき、その雪面に表層雪崩発生の危険を示す重要な予兆であるクラックが数本相次いで目撃された。それは隊列の進行に因つて生じたものであるとみられる。しかし(ⅰ)前記(イ)(ⅰ)の説明・注意・指示を怠つたことによりクラックの発見は小泉らに伝達されず、(ⅱ)小泉ら自身も隊列の進行状況、特にその前方の動静について周到な注意を払うことを怠つたことにより、自らはクラックを見逃したばかりか、その発見時における隊列の動静にも気付かなかつた。

(ニ) 本件事故現場は沢を詰めた上方部に広がつている森林のない大きな斜面に形成された吹きだまりで、これは古来「シロデ」と称され、雪崩発生の危険が最も高いものとして警戒されてきている。「シロデに踏みこまないこと、近づかないこと」は危険回避のための鉄則である。

本件事故現場の直前に至つたとき、その地勢の状況が沢を詰めた上方に森林限界を越えて広がつている大きな風下斜面であることや前夜来の強風雪などからみて本件現場がシロデであることは容易に予見すべきことであるから、小泉らは前記(イ)(ⅳ)の危険回避の方法を構ずべきところ、これを看過して何らなすことなく慢然進行を続けさせた。

(ホ) 以上は、小泉らにおいて雪崩発生の危険がないと軽信したか或いはその危険を軽視したことによるものであつて、いずれも小泉らの前記注意義務に反する過失である。

4  被告の責任

小泉らは被告の公務員であり、本件山行計画は特別教育活動として正規の学校教育活動に属し、学校教育活動は公権力の行使に該る。小泉らはこの教育活動におけるその職務として引率指導を行うにつき前記3の如き過失を犯し、これによつて弘英が死亡したものであるから、被告は原告らに対して国家賠償法第一条に基づく責任を負うべきものである。

5  損害

(一) 弘英の損害とその相続

(1) 逸失利益

弘英は死亡時満一八才であり、本校に三年生として在学しており、同校を五年生で卒業する昭和五四年四月一日から直ちに航空機整備士として就職するとの希望をもつていた。本校の性格、卒業生の進路、弘英の学業成績等に鑑み且つその障害となる特段の事情もないので、同人は順調に二〇才で就職し六七才まで少くとも四七年間稼働して収入を得ることができた筈である。右収入計算の基礎となる高等専門学校卒男子労働者の全年令平均賃金は賃金センサスを基準とすべきであり、しかも労働者の平均収入は毎年上昇が認められるので、昭和五〇年度のそれに少くとも三〇パーセントを加算すべきで、これによると、年間平均収入は別紙計算表のとおり三九三万九二六〇円であるところ、当然に支出すべき生活費として右給与額の五〇パーセントを控除したうえで新ホフマン式計算により中間利息を控除して本件事故当時の現価を求めると、逸失利益合計額は四四四二万五〇〇四円である。ところで弘英は一八才から二〇才(本校卒業時)に達するまでの二年間につき養育費の支出を要するところ、これは月額二万円が妥当であり、その合計額は新ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現価を算出すれば、別紙計算表のとおり四四万六七三六円となり、これは本件事故により支出を免れた金員であるからこれを控除すべきであり、結局逸失利益合計額は四三九七万八二六八円である。

(2) 慰謝料

弘英は中産家庭の長子として原告らに愛育され中学一年の弟に慕われながら航空機整備士たらんと志を立て本校入試の難関を越えて勉学を続けてきていたが、本件不慮の事故により、一八才の若さで志を遂げることができずに他界した。弘英の右精神的苦痛を慰謝するには少なくとも一〇〇〇万円が相当である。

(3) 原告らは弘英の両親であるところ、弘英の死亡により弘英の被告に対する右(1)、(2)の合計五三九七万八二六八円の損害賠償請求権を各自二分の一すなわち二六九八万九一三四円宛相続した。

(二) 原告らの慰謝料

原告らは一八年間愛育してきた長男を、本件事故により一瞬のうちに失いその悲歎は言語を絶する。右精神的苦痛を慰藉するには少なくとも原告各自につき一〇〇〇万円が相当である。

(三) 葬儀費用

原告三郎は弘英のため葬儀を行なつたものであるところ、その費用のうち一〇〇万円を本訴で請求する。

(四) 被告は、前記損害賠償債務を任意に履行しないので、原告らは原告訴訟代理人らに本件訴訟遂行のための法律事務処理を委任したが、その弁護士費用として訴額の約七パーセントの二六〇万円の支払をそれぞれ約した。

6  結論

よつて、原告三郎は被告に対し合計四〇五八万九一三四円及びうち右5(一)、(二)による合計三六九八万九一三四円に対する弘英死亡の日の翌日である昭和五二年三月三一日から、うち右5(三)、(四)による合計三六〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五二年一〇月一五日からそれぞれ支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、原告幸子は被告に対し合計三九五八万九一三四円及びうち右5(一)、(二)による合計三六九八万九一三四円に対する弘英死亡の翌日である昭和五二年三月三一日から、うち右5(四)による二六〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五二年一〇月一五日からそれぞれ支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、それぞれ求める。

二請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1(一)(二)の各事実はいずれも認める。

2  請求原因2(一)(二)(三)(四)(六)の各事実はいずれも認め、同(五)中「森林限界沿いでは視界も良好であつた」との点は否認し、その余は認める。

3  請求原因3(一)は認める。

請求原因3(二)は一般論としては争わない。

請求原因3(三)の冒頭部分は争う。

(1) 同(1)のうち前段は一般論としては争わないが、後段は争う。

(イ)(ⅰ) 同(イ)(ⅰ)は一般論としては認める。

(ⅱ) 同(イ)(ⅱ)の事実につき、仮にそのような気象変化の傾向があるとしても、それは山岳地方特有の通常の気象変化というべきであつて、低気圧の接近通過によるものではない。山岳地方の気象のサイクルは仮にあるとしても、それは必ずしも低気圧や前線の接近通過に伴つて生ずるものではないのである。春先に低気圧や前線の接近通過があつても、それは毎年同じパターンをとるとは限らず、その発生時期、強さ、進行速度、方向等によつて異なるのであるから、通常人がこれを正確に予測することは不可能である。

(ⅲ) 同(イ)(ⅲ)の事実は否認する。二九日夜の観天望気の結果と、低気圧の位置からみて、二九日深夜からの天候急変は南下した強い寒気の侵入によるものであつて、九州西方の低気圧とは別個の原因によるものである。低気圧の接近に伴う変化であるにしても、本件当時は通常の気象変化ではなく、いつ天候が回復するか全く予断を許さないところであつた(事実三一日は三〇日よりさらに天候が悪化した)。それゆえ、本件の場合に、原告らが通常の気象変化を前提としてその周期性を指摘するのは誤つている。四月一日になつて天候が回復しているというのは単なる結果論にすぎない。しかも、原告らが回復したと主張する四月一日の天候も午前中は悪気流のため救援のヘリコプターも飛行不可能な状態であつた。

天気図から半日先、一日先を予測するのはむずかしいし、特に山岳気象の予測はむずかしいから、一般登山者が山岳気象の一日先、二日先の変化を的確に予測することは不可能である。

春山の気象変化は、一般に四、五日周期であり、悪天も一日位で終わると言われているが、悪天が常に一日とか一日半といつたようにぴつたりしたものではなく、二日、三日にわたることもあり、また、低気圧の進行方向に高気圧があると、それが障害となつて低気圧の速度は純るのが一般である。本件の場合も、低気圧の進行方向の太平洋上に高気圧があつたのであるから、小泉らが時間がたてばたつほど低気圧の接近によつてますます天候が悪化するものと判断し、三一日、四月一日と悪天が続くと予測したことは正しいことであつた。

(ⅳ) 同(イ)(ⅳ)の主張は争う。

(ロ)(ⅰ) 同(ロ)(ⅰ)の事実中小泉らが本件ルートを選定したことは認め、その評価については争う。

(ⅱ) 同(ロ)(ⅱ)の主張は争う。本件ルートの雪面の斜度は二〇度程度であり風下側の斜面の吹きだまりだからといつて、常に雪崩発生の具体的危険があるというものではなく、雪崩が発生するかしないかは力のバランスによつて決まる。一つの吹きだまりの大きさは、せいぜい数十メートルであつて、本件山腹上方一帯がすべて危険な吹きだまりだとは言えない。本件ルートが東側斜面の風下であるという意味で仮に雪崩発生の抽象的危険であるとしても常に必ず発生すると限つたものではなく、本件パーティーの歩いた場所の雪の深さ、地形等から考えても雪崩発生の蓋然性が極めて高いとは言えないから、小泉らが雪崩の危険を予見しうべき具体的危険があつたとは言えず、本件パーティーが山腹ルートを歩いたことに対する原告らの非難は失当である。

なお、樹林帯の中は雪崩の発生率は少なく、また万一雪崩に遭遇しても樹木につかまることができる。事実、小泉は本件雪崩に流されたとき、樹木につかまつている。

(ハ)(ⅰ) 同(ハ)(ⅰ)の主張は争う。

(ⅱ) 同(ハ)(ⅱ)は争う。本件パーティーが三月三〇日の時点で十分な食糧・燃料を持つていたことは事実であるが、非常用の食糧を持参していても、それに手をつけるのは、遭難して進退極まつたときだけであつて、燃料も雪をとかして飲料水を作ることと炊事用であつて、とくに暖房用のものは持参していなかつた。西駒山荘は木造で建付けが悪く、風雪による損傷もひどく周囲の壁には薄板やベニヤ板が打付けられているが、本件事故当時はそれらの隙間から雪が大量に吹きこんでおり、山荘内部も外気とほとんど温度差がないため冬用テントのほか内張りの使用も必要であつた。

(ⅲ) 同(ハ)(ⅲ)の事実は否認する。小泉の過去の経験から、学生の規律ある団体行動は三ないし五日しか期待できず、仮に停滞して強風にさらされる薄暗い山荘の中で停滞することによる心理的負担は単に一日とか二日の問題ではなく、それ以上に二倍、三倍の大きな精神的重圧となる。昭和五一年三月の八ケ岳春山合宿で幕営したところはキャンプ場で、しかも約五〇メートル離れたところに山小屋のある場所で、右幕営は緊急避難的なものではなく、主として、訓練を目的としていたものであるから、このときのパーティーの学生達が動揺しなかつたとしても、それは当然のことであり、本件の場合とは異なる。登山歴一ないし三年の初心者が半分を占める本件パーティーにあつては、強風下の山小屋での厳しい生活状態が、悪天候の中で、一、二日続くことになれば、これら初心者に心理的不安を与え、ひいてはその後の本件パーティーの行動に悪影響を与えることは必至である。

(被告の主張)

本件ルートを歩いたからといつて、そのことから、本件パーティーが雪崩、滑落等の具体的危険に直面すると限つたものではない。悪天下に山小屋に停滞した場合、初心者はものすごい恐怖心にかられ、その精神的重圧は単に一泊、二泊の問題にとどまらないことを考えると、仮に好天下に稜線を歩くことになつたとしても、小泉が本件パーティーの学生達に秩序ある行動を期待できないと考えても無理もないことであり、また停滞による心身の疲労と下山を急ぐ焦り等のため、滑落、転倒、雪庇の踏み抜き等の事故が十分予想される。要するに下山か停滞かは厳しい気象条件の山岳にいる者と静かな平地にいる者との判断の相違であつて、種々の点を比較衡量して現場パーティーのリーダーが決定したことに対し、不幸な結果が発生したという一事でもつて当時現場にいない第三者があれこれ批判すべきことではない。

(2)(イ)(ⅰ) 同(2)(イ)(ⅰ)の注意・説明・指示をなすべき注意義務については下山に際して必要とされるかについてはこれを否認するが、仮にその義務があるとしても、この注意・説明・指示をしなかつたとの事実を否認する。小泉らは、下山に際し、雪上訓練で学んだ滑落停止の基本事項を再度確認し、雪崩・滑落に注意しながら各自が慎重に行動するよう指示しているし、途次に異常を発見した場合は直ちに報告するよう山岳部員には常日頃から指導している。

仮に原告ら主張のごとき指示・説明義務違反があるとしても、本件事故はそのことを直接の原因として惹起されたものではなく、本件現場が事故後に判明したごとく、いわゆるシロデと呼ばれる吹きだまりであることを予見できなかつたことによるものであるから、この点に関する原告らの主張は、前提において失当というべきである。

(ⅱ) 同(イ)(ⅱ)の隊列の組み方に関する注意義務についてはこれを否認する。本件パーティーはラッセルの関係で先頭集団は順次交替しながら進行し、本件事故現場ではOBの清水を先頭に角田、志村、嶋ノ内、仲佐、加藤、弘英、森田、小泉、中山の順で進んだが、経験者を先頭に、パーティーの中間に経験の浅い者を組み入れ、最後部にまた経験者を置いて進むのが登山の常通であつつて、このような隊列の組み方自体はとくに非難されるようなものではない。また、本件現場がいわゆるシロデと呼ばれる吹きだまり区域であることを予見することは不可能であつたから、小泉が仮にパーティーの先頭に立つていたとしても、本件事故を避けることはできなかつた。

(ⅲ) 同(イ)(ⅲ)の間隔を保つべき注意義務についてはこれを否認する。たしかに雪崩が予想される場合は原告ら主張のとおり、歩行者の間隔を広くとるべきは当然であるが、本件の場合雪崩の危険の前兆としての異常は認められなかつた。しかも風のため雪が空中に舞い視界が悪かつたので、本件パーティーは自分の前の歩行者を見失わない程度の間隔で歩いていたものである。

(ロ) 同(2)(ロ)のうち本件事故現場に至つた状況((ⅲ))は認めるが、その余は争う。

(ハ) 同(2)(ハ)のクラックの発生が本件パーティーの歩行によつて生じたものであり、且つ雪崩発生の重要な予兆であるとの事実はこれを否認する。森林限界をラッセルしながら約五〇〇メートル歩いてもその間雪崩が発生しなかつたことから考えても、本件クラックがクラスト面のものであるか或いはクラストした雪面のクラックの影響で吹きたまつた柔らかい雪の表面まで亀裂が生じていたものと考えるのが合理的である。

(ニ) 同(2)(ニ)のうち、小泉らが本件事故現場が雪崩発生の危険個所であることを予見し得たとの主張は争う。本件パーティーの持参していた五万分の一の地図からは、本件ルートをトラバースすれば沢にぶつかることなく、沢の上部を迂回して安全に胸突屋根に至ることができると考えられるし、本件事故現場は特にえぐられたような地形的起伏はなく、それまで歩いてきた森林限界の傾斜と何ら変つているところはなかつた。本件事故現場の樹木の跡切れは約一〇メートル位であるにすぎず、現場からは樹木にさえぎられてその下方に沢が始まつていることは、約一〇〇メートルも下降しなければ全くわからなかつたので、その空間は単なる樹林の切れ目のように見えた。下山行動開始にあたり、小泉は、滑落や雪崩の発生など具体的な危険の予想される場所に直面した場合には、ザイルを使用して当該危険を回避しようと考えて、普段はザックの中にしまつておくザイル二本を必要なときにはすぐ取り出せるようザックの上部に取り付けさせていたが、本件事故現場が沢の上部でシロデと呼ばれる雪崩発生の危険のある吹きだまりであると認識できなかつたため、小泉らは雪崩や滑落等の危険を回避するため用意していたザイルを使用することなくその空間部分を進行した。

(ホ) 同(2)(ホ)の主張は争う。

結局、本件事故現場が沢の上部でシロデと呼ばれる吹きだまり区域であることを予見することは到底不可能だつたのであるから、本件事故は引率者らの過失に基づくものではなく、不可抗力による自然災害である。

4  請求原因4の主張は争う。

5  請求原因5の損害額は争う。

三  抗弁

1  過失相殺

(一) 損害額の算定にあたつては、いわゆる被害者が当該危険を承認ないし許容していた場合のように、被害者が事故及び損害の前提となる危険性を含んだ生活行動ないし場所を選択した場合には、一種の危険負担として責任分配を考慮すべきである。

(二) これを本件についてみると

(1) 登山は自然を対象とするスポーツであり、雪山登山は雪崩をはじめ雪庇の踏み抜き、滑落等入山者の生命、身体に対する重大な危険性を内包し、如何に注意していても事故が避けられない場合もある。

(2) 亡弘英は、本校二年在学中の昭和五〇年夏ころ同校山岳部に入部し、以後自らの自由意思に基づき同校山岳部の行事に積極的に参加していた。しかも、亡弘英は父親から本件山行前に、今年は雪が多く雪崩があるから気をつけるように言われているのであるから、雪崩発生の危険性については知悉していたはずである。

(3) また、亡弘英の両親である原告らは、弘英の山岳部入部については何ら反対しておらず、春山登山は雪崩発生の危険性の高いことを十分に承知した上で本件山行に参加することを認めている。

(三) このように、亡弘英及び原告らは、本件山行が積雪期の登山であり、雪崩発生の危険性のあることを承知した上で、自らの自由意思に基づき本件山行に参加し、或いは参加することを認めているのであるから、損害額の算定にあたつては右事情を斟酌して過失相殺されるべきである。

2  損益相殺

原告らは、本件事故で亡弘英が死亡したことにつき、日本学校安全会から死亡見舞金として二〇〇万円を受領している。よつて、原告らの損害額と右金員とは損益相殺されるべきである。

四抗弁に対する認否

抗弁については争う。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(一)(二)の各事実、同2(一)ないし(六)中、同(五)の「(森林限界沿いでは)視界も良好であつた」との点を除くその余の各事実はいずれも当事者間に争いがない。また、<証拠>によれば、右視界については良いときは一〇〇メートル以上見えることもあつたが、大体二〇メートル前後であり、本件事故現場付近においては一〇ないし二〇メートルであつたことが認められる。

二  小泉及び中山の過失

請求原因3(一)(二)の事実及び主張は当事者間に争いがない。以下これを前提として、小泉らの過失の有無を検討する。

1  下山決定

(一)  請求原因3(三)(1)のうち、一般論として、下山決定をするに際してはまず安全の確保を第一とし、予測される危険を回避するには下山の場合と停滞の場合とにおけるそれぞれの危険を十分比較衡量してより安全な処置をとるべきものであることは当事者間に争いがない。

(二)  天候推移の予測について(同3(三)(1)(イ))

登山パーティーの引率者に対して、天候の推移を把握するために、その時期とその現地における天候の特性についての知識及び気象通報による天気図の作成とその読みとりの技術を身につけ、これを活用することが要求されることは当事者間に争いがない。また、<証拠>によれば、一般に春山の気象変化は周期性があり、悪天も短い間に去つてその後は山岳行動に支障のないような好天になるものであるとされていることが認められる。そして、本件の場合も、三月三一日は天候が一段と悪化したが、四月一日になつてこれが回復したことは当事者間にほぼ争いがない。ところが、<証拠>によれば、小泉らは、加藤が三月三〇日午前九時一五分放送の漁業気象通報を聴いて作成した天気図に基づき九州西方に前線を伴う低気圧があり、それが時速約三五キロメートルで東進していることが判明したところから、これによつて今後ますます天候が悪化すると判断したこと(以上は当事者間に争いがない)、具体的には、三一日は更に天候が悪化し、四月一日にもその影響が残るかもしれないと判断したことが認められる。しかし、<証拠>によれば、春山といえども、悪天の期間が常に一日とか一日半で終わるという保証はなく、二、三日にわたることもあるし、また前記低気圧の進行方向の太平洋上に高気圧があつた本件にあつては、これが障害となつて右低気圧の速度が純ることも十分考えられることであるから、入山中に作成した天気図と、前記春山の気象変化についての周期性のみから変化の激しい山岳気象を一日先、二日先まで的確に予測することを一般登山者である小泉らに要求することは無理というべきであり、したがつて、前記小泉らの天候予測と客観的な事実との間に右の程度のズレがあることをもつて、過失があるものと断ずることはできない。

<証拠>中、これと結論を異にする部分は採用できない。

(三)  停滞について(同3(三)(1)(ハ))

<証拠>によれば、食糧については四月一日昼食分(非常食をいれると四月二日分)まで確保されており、燃料は炊事用に雪を溶かすためのものとしては四月二日分まで十分余裕があつたから、西駒山荘に滞在するについて食糧及び燃料に当面不安はなく、また山荘の構造自体が特に雪山の山荘として構造上の危惧があつたわけではないことが認められる。しかし、<証拠>によれば、西駒山荘内には破れた窓や板壁の隙間から大量の雪が吹きこんでおり、その中に冬用テントを張つて内張りをしているという状況で、昼間でも寒く且つうす暗かつたことが認められ、また<証拠>によれば、このような状況下ではつきりした目処なく停滞を続けることは学生(特に初心者)の精神的不安をひきおこし統率がとれなくなる心配もあると考えられたこと、計画表のなかで予備日が明確にされていなかつたところから下山が遅れる場合には学校・家庭に心配をかける結果になること、停滞後、心身共に疲労した状況で下山する場合の滑落、転倒、雪庇の踏み抜き等の危険性をも考慮すると、これ以上天候が悪化する前に、しかも学生が元気で志気も高いうちに、安全に下山できるルートがあれば下山した方がよいというのが小泉らの気持ちであつたものと認められる。そして、結局本件ルートによる下山決定をしたことは当事者間に争いがない。この点について、原告は、雪山では「悪天候下では動くな」との原則があるところ、本件はまさにそのような場合であつたと主張するけれども、停滞した場合にも既にみたような種々の問題点があり、しかも、前記(二)のとおり、九州西方の低気圧が接近してこれからますます荒模様になることが十分予想される本件の場合にあつては、低気圧の本体につかまる前に早く安全な場所へ逃避するため、安全なルートを見つけて下山するというのも一つの許される判断であるということができる。

したがつて問題は、本件の場合に右にいう安全なルートがあつたか否かという点に絞られることになるわけであり、以下この点について検討する。

(四)  下山ルートの選定について(同3(三)(1)(ロ))

<証拠>によれば、西駒山荘からの下山ルートとしては、(あ)大樽小屋方面へ引き返すというもののほか、(い)馬の背から千畳敷方面のルート、(う)権現ヅルネ方面のルートが考えられるが、(い)は当日の行動予定を中止したことからも明らかなとおり、風上からの非常な強風を受けて稜線上を歩かなければならないというところから本件パーティーにはまず無理であり、また(う)は距離が非常に長く途中で一泊しなければならないかもしれず、夏でも廃道になつていて未知の部分が多いことから測り知れない危険性があるということでいずれも選択の対象からはずされた。残されたルートとしては、(あ)の大樽小屋方面へ引き返すそれしかないところ、そのためには往路にとつた稜線を辿るかまたは稜線から伊那側に下がつた山腹ルートによつて胸突尾根に到達することが考えられたが、果たしてこれが可能かどうか検討すること、また右山腹ルートは本件パーティーにとつて未知のルートであつたが、当時同パーティーが持参していた五万分の一の地図によればこのルートの下方に三本の沢筋があることが認められたので、この沢の位置もあわせて確認しようということで、小泉と清水による偵察が行なわれることになつたものと認められる。そして、この偵察の模様と結果については、<証拠>によれば、既にみた争いのない事実(請求原因2(四))のほか次の事実が認められる。即ち、前記三本の沢筋のうち一本は西駒山荘直下に突き上げているため確認でき、これが本流であると考えられたが、あとの二本は現地確認ができないままであつた。しかし、小泉は、五万分の一の地図からすれば、あとの二本はおそらくはるか下方にあり、稜線に近い森林限界を歩いて胸突尾根方向に達すればこの沢筋の上方を迂回できるであろうと考え、また森林限界には多少吹きだまりの雪はあつたが、初心者にはかえつて足元が固定されて歩きやすいと判断した。こうした判断を含む小泉の報告に基づき、本件パーティーは本件ルートによる下山を決定したのであるが、実は、本件ルートはその途中において前記未確認の沢筋に遭遇せざるを得ないものであつたのであり、したがつて客観的には雪崩の危険性をはらんだ下山ルートであつたものと言わなければならない。

即ち、<証拠>によれば、本件事故現場は将棊頭山頂から北方約三〇〇メートルの稜線から東方に約一〇〇メートル下がつた地点で、既に稜線下約八〇メートルから沢状のくぼみが形成されており、そこから約二〇メートル下がつた沢であり、樹林帯はこの沢筋に沿つて約一五メートルの幅で途切れていたことが認められる。(もつとも、本件事故現場につき、沢ではなくてその上部の山腹面であるとする<証拠>があるが、<証拠>にあるとおり、本件事故現場付近一帯は未確認であつた二本の沢のうち南の沢筋であるが、これは二つに分かれた沢がまた分かれて大きく上方に広く開いているという複雑な地形であつて、事故現場であるこの沢状のくぼみのある地点を、既に沢を形成している部分とみるか、いまだ沢を形成していない沢の源頭部に近い部分と考えるかは、単に評価の違いにすぎないと考えられる。)

そして、<証拠>によれば、小泉らも、雪崩の危険を回避するため沢筋に踏み込まないことを特に注意していたことが認められるのである。しかし、当時はまだ二万五〇〇〇分の一の地図(乙第五号証と同じもの)は発行されておらず、本件パーティーの持参していた五万分の一の地図(乙第四号証と同じもの)によれば、未確認の沢筋がどこから始まるか不明であつたし、また前記偵察の際三ツ岩から下方を見おろしても樹林にさえぎられて下方の沢の存在を確認することはできず、前日往路に稜線を歩いた際も、雪庇の踏み抜きを防止するため木曽側を歩かねばならなかつた関係上、右の沢を認識することは不可能であつた。

こうして小泉らは、右五万分の一の地図と前記偵察にも拘らず沢筋を確認できなかつたということから、未確認の沢は稜線下五〇〇ないし六〇〇メートル下方から始まつており、岳樺の樹林帯の森林限界は胸突尾根方向に続いているから、これに沿つて行けば沢のはるか上方を迂回することができ、沢筋に踏み込んで雪崩を誘発することなしに下山することができるのではないかと考えたのである。

しかし、右の小泉らの判断はやや希望的観測に傾いたきらいがないではなく、特に、前記のとおり、右五万分の一の地図上では分明でなかつた三本の沢の一本は殆んど西駒山荘直下まで突き上げていることが偵察の結果判明していたことに照らせば、未確認の二本の沢についてももう少し稜線近くまできていることを警戒する余地があつたのではないかとも考えられないではないが、ただ、右の小泉らの判断がルートの偵察までした上でのそれであつたことに思いを至せば、このような判断をしたことに過失があるとすることにはなお躊躇をおぼえるものがある。

また、<証拠>によれば、将棊頭山の伊那側山腹の斜面の斜度は二〇ないし三〇度で、風下斜面にあたり、本件事故当日は未明からの風雪により、森林限界付近はくるぶしないしひざ下までの深さの新雪の吹きだまりが形成されていた(そのために殆んど平らに近いなだらかなものに感じられた)ことが認められるところ、原告はこのような吹きだまりの形成されているところは雪崩の危険の大きい場所であり、したがつて本件ルートは全体的に雪崩の危険に満ちたおよそ通つてはならないルートであつたと主張し、証人高橋喜平はこれに沿う証言をする。たしかに右証人高橋の意見は雪崩の発生についての一つの見解を示したものと評することはできるけれども、雪崩の構造や発生原因については未だ科学的な解明が尽くされているとは言えない段階であつて、当裁判所としても到底これについて確たる判断を示すことはできないし、現に本件においても本件事故現場の沢筋に至るまでの吹きだまりでは雪崩は発生していないのであるから、本件山腹ルート一帯がおよそ通つてはならないと言えるほど雪崩の具体的な危険性をはらんでいたとまで断ずることはできないものというほかはない。かえつて、証人飯田睦次郎の証言のように、稜線直下では尾根筋からしばしば急に強風が吹き、アイスバーン化しているため滑落の危険性が極めて高いし、逆に稜線から下がりすぎると積雪量が多くなつたり樹木にさえぎられて歩きづらいから、稜線下約一〇〇メートルの山腹をトラバースすることは適切な選択と言えるという見解もある程であり、加えて、小泉らが、森林限界では雪崩が発生しても樹林帯によつてその規模・速度が緩和され、また樹木につかまつて雪崩を回避できると考えたことは、発生した雪崩の規模にもよるが一応常識的な判断であるとも考えられるのである(現に、<証拠>によれば、同人が本件雪崩に流されたとき樹木につかまつて助かつている事実が認められ、右認定に反する証拠はない)。証人三井〓大はこれに反対するけれども、それにも拘らず当裁判所は、右のような小泉らの判断を荒唐無稽な考え方であるとする原告の非難は当らないものと考える。

2  下山行動過程

(一)  <証拠>によれば、(あ)下山にあたり小泉はリーダーの加藤に対し、全員の荷物を再点検して装備の重量にアンバランスが生じないようにという点と、三ツ岩から先の未知の部分にどんな危険箇所があるかわからないから、普通はキスリングの中にしまつておくザイルをいつでも取り出せるように四〇メートルザイルはリーダー加藤の、二〇メートルザイルはサブリーダー角田のキスリングのそれぞれ一番上に取りつけておくよう指示したこと、(い)特に下級生に対しては、上級生、OB及び顧問を信頼して慎重な行動をして欲しいと説明したが、滑落や雪崩の危険については、初心者である一、二年生に不安を与えないようあえて話さなかつたこと、(う)隊列の組み方は、先頭に清水をたて、最後部に小泉、中山が位置するというもので、その間の部員は途中ラッセル要員の関係で多少の変動はあつたが、本件事故現場では清水、志村、角田、嶋ノ内、仲佐、加藤、弘英、森田、小泉、中山の順であつたこと、(え)間隔は滑落防止のためあまりあけないこととし、西駒山荘を出て森林限界に達するまでは1.5ないし二メートルであり、森林限界に達してからはラッセルのため間隔は更につまつたこと、以上の事実が認められる。

(ⅰ) 下山のための出発に当つて小泉がなした指示や注意のなかに雪崩の危険についての説明がなかつたことは右に認定したとおりであるが、小泉は雪崩等の危険箇所に備えてキスリングの上にザイルをセットさせるなどの対策を構じているし、初心者に対しては顧問らを信頼して慎重に行動するようにとの説明をしていることに照らせば、初心者に過度の不安を与えないためにあえてこれを話さなかつたというのも一応うなずけるところである。また、後に検討するとおり、清水らによつて発見されたクラックは必ずしも本件事故の雪崩の予兆であるとは言えないこと、本件事故現場が沢筋であると認識することは進行中には不可能であつたことを考えると、仮にそれ以上に雪崩の危険につき説明・注意をなし、途次の異常を小泉らに伝達するよう指示がなされていたとしても、必ずしも本件事故を防ぐことができたとは言えないから、いずれにしても右の説明や指示がなかつたことをもつて小泉らの過失ということはできない。

(ⅱ) 小泉らは隊列の後部につき先頭に清水をたてたという隊列の組み方については、<証拠>によつて認められるとおり清水がその登山歴や実力からしても小泉に次ぐ位置を占めていたことからすれば、そのような清水が先頭にたつことも山岳パーティーの隊列の組み方としては一般にとられることのあるものであり何ら異とするに足りない。そればかりか、本件の場合はラッセルが必要であつたのであるから、小泉よりも一〇歳位若く体力のある清水が先頭に立つのはむしろ極めて妥当なことであつたものということができる。また、仮に小泉が先頭に立つていたとしても、小泉も本件事故現場に至つてここが危険な沢筋であるとの認識を持てなかつたものと思われることは後記のとおりであるから、結局本件事故を防げたとは言えず、いずれにせよ隊列の順番自体に問題があつたとは言えない。

(ⅲ) 隊列が一定の充分な間隔を保つていれば、たしかに本件のごとき大量遭難を防ぐことができたとは言えるであろう。しかし、原告主張のとおり本件ルート一帯を一五ないし二〇メートルの間隔で歩くべき注意義務があつたとまで言えるかについては大いに疑問がある。何故なら、森林限界付近に到達するまでは雪面はクラストしておりむしろ雪崩より滑落の危険があつたこと、森林限界付近はくるぶしからひざ下くらいまでの新雪があつたがその下はやはりクラストしており初心者の後ろで経験者が補佐をする必要もあつたこと、前記一のとおり視界は森林限界沿いでは大体二〇メートル前後、本件事故現場付近で一〇ないし二〇メートルであつたからパーティーのメンバーを見失わないようにする必要もあつたこと、夕刻までに大樽小屋に辿り着くためにはある程度の速さで進まなくてはいけないことという事情があつたからである。このような事情に照らせば、結局原告の右主張は採用することができない。

(二)  本件ルート下山の途中、岳樺の樹林帯に入る少し手前において清水、志村、嶋ノ内らにより二度にわたつてクラックが目撃されていることは前記のとおり当事者間に争いがない。しかしこのクラックが、本件パーティーが歩いたために生じた表層雪崩の予兆であると認めるに足りる証拠はなく、クラストした雪面のクラックの影響により、吹きたまつた柔らかい雪の表面まで亀裂を生じたものとみる可能性も十分ありうる。そればかりか、そもそもこのクラックから本件事故現場まで本件パーティーは森林限界をラッセルしながら約五〇〇メートル歩いてきているのであるから、このクラックと本件雪崩の発生原因とが直接の因果関係をもつものとは言い難いと思われる。

(三) 前記1、(四)のとおり、五万分の一の地図からは、本件事故現場が沢筋であることはわからず、沢は稜線下五〇〇ないし六〇〇メートル下方から始まつているように読みとられたのであるが、<証拠>によれば、小泉はなお未確認の二本の沢のことを常に念頭においていたことが認められる。そして、本件事故現場の沢筋に沿つて樹林帯が幅約一五メートルにわたつて途切れていたことは前記1、(四)のとおりであるが、<証拠>によれば、それまでの森林限界でもまばらなところでは樹間がその程度の間隔のところがあつた(森林限界にある岳樺は太さが直径五ないし一五センチメートル、高さは雪上に一ないし三メートル突き出ており、狭いところで約二メートル間隔、広いところでは五ないし一〇メートル間隔で生えていた)ため、本件事故現場もそれと同じ単なる樹木の途切れであると考えたこと、また、本件事故現場ではこれが地形的にえぐれた箇所であるということもわからず、更に約一〇〇メートル下降した地点ではじめて同所がそのような地形であることが雪の上からもわかり、本件事故現場が沢筋の上部であることが判明したということが認められるのである。しかも、森林限界沿いでの視界は前記のとおり二〇メートル前後であり、このような状況下でラッセルをしながら進行中の本件パーティーにとつて本件事故現場が沢筋であることを予見することは極めて困難であつたと考えるほかはなく、この点の判断を誤つたことをもつて過失とすることはできない。

(四)  雪崩発生の危険のある箇所に到達したときには、事故予防のため下山を中止し退却、退避し、または一人ずつザイルでトラバースさせるなどの状況に応じた適切な処置をとるべきことは当然ではあるが、前記認定のとおり本件事故現場が危険な沢筋であることの予見可能性がなかつた以上、本件現場において右のごとき処置をとるべきことを要求することは不可能であつたというほかはない。

三  結論

以上検討したところによれば、本件事故は小泉らの過失によつて生じたものということはできない。

よつて、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(山田二郎 西理 水谷美穂子)

計算表

◎18才の高等専門学校生徒に係る新ホフマン係数(20才から67才まで稼働)

1 就労の終期(67才)までの年数49年(67才〜18才)に対応する係数=24.416

2 就労の始期までの年数2年(20才〜18才)に対応する係数=1.861

3 就労可能年数=49年−2年=47年

4 適用する係数=24.416−1.861=22.555

◎高等専門学校卒全年令平均給与額

1 1年間の給与額(賃金センサス昭和50年度第1巻第1表による)=184,400円(毎月きまつて支給する現在給与額)×12ケ月+817,400円(年間賞与その他特別給与額)=3,030,200円

2 1に対する加算分30%=3,030,200円×0.3=909,060円

3 1年間の総収入=3,030,200円+909,060円=3,939,260円

4 1年間の生活費控除額(50%)=3,939,260円×0.5=1,969,630円

5 1年間の純収入=3,939,260円−1,969,630円=1,969,630円

◎逸失利益額

1 養育費控除前逸失利益額=1,969,630円(1年間の純収入)×22.555(適用する係数)=44,425,004円

2 養育費=20,000円(月額)×12ケ月×1.8614(新ホフマン係数)=446,736円

3 最終逸失利益合計額=44,425,004円−446,736円=43,978,268円

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